山用カメラ  アナログ

クライマーの山カメラ

ニコン F2フォトミックA 1982年

        もちろんこのまま山に持って行ったわけではない

1983年10月のある日、かねてより羊蹄山のご来光のすばらしさを聞かされていた私は、真狩登山口より、生まれて初めての本格的登山を実行することにした。とにかく山登りのノウハウは事前に読んだ山と渓谷だけなので不安は大きかった。地元にはアウトドアショップなど存在しておらず、用意できた装備はスニーカーとビニールの雨合羽、サブザックと帽子だけというお粗末さだった。当時写真を本格的に趣味としていたので、カメラはニコンF2Aと超重量級を持っていてしまった。単独でもあり、登山口が何処かわからず迷走し、やっと比羅夫登山口にたどり着いたのは21:00を過ぎ、寝る間もなく3:00登山を開始した。

 完全なマニュアルカメラだから絞り、シャッタースピードを間違え失敗も多かった

ヘッドランプの存在を知らない私は単二の懐中電灯を手に持ち、真っ暗な登山道をひたすら登って行った。登るペースがあることを当然知っているわけもなく、すぐにばて気味になり休憩を繰り返した。何度もこれほど苦しいなら止めて降りようと考えたが、登るにつれてせっかくここまで来たのに、惜しいと考えなおして続行した。まともな装備は皆無だが、根が慎重な私は水を3L、雨合羽、食料、セーター、そしてニコンF2Aは1.2kgである。

         地上に無い光景を見たのが運の尽きだった

結構重いのだ。喘ぎつつ8合目で見たものは白いエビのしっぽがびっしりと付着したハイマツであった。F2aを持ってきた甲斐があったと喜んで写真を撮りまくった。その後避難小屋で休憩し、ガスで覆われた頂上へ向かった。外輪で一瞬ガスが晴れ、ブロッケンを見た瞬間疲れが吹き飛んだ。この時に私の山人生が始まり今日に至ったのかもしれない。

       これを生まれて初めての登山で見てしまった

問題は下山になる。足元は今朝降った雪が解け始めてドロドロとなり、何回も転倒する始末だ。下山するにつれて雨が降り出し、足がもつれ引きずるように登山口へたどり着いた。34才とはいえ、全くの無謀登山である。強く反省した私は、次の休みに札幌市の登山用品店へ出かけ、まともな装備を手に入れたのだった。山にはあまりにも重すぎてたった一度しか持ち出さなかった

ニコン FE  1982年

  今思えばこんな鉄の塊を良くアルパインクライミングに持って行ったものだ

激しい使い方でシャッターが二回も壊れた
1982頃に、知り合いから新品同様のFEを、15,000円という当時としてはただ同然の値段で譲り受けた。ほとんど新品状態だったので、サブカメラとして20年間フルに使用した。1983年から山登りに目覚めた私は、F2Aを携帯して、あまりの重さでひどい目に遭ってから、FEのみ山で使うようになった。AEも有るし、たとえバッテリーが切れても使える安心感が有るのでハイキングに、アルパインクライミングにと常に携帯した


写真を見てもらうとわかるように外観はベコベコになった。これは、アルパインクライミングにのめり込んだ私が、必ずと言っていいほどクライミング時に持参し、いやと言うほど岩にぶっつけたからなので、これほどひどい使い方は普通ありえないだろう。

         芦別岳夫婦岩 北壁カンテ 1P目

本チャンの緊張時には、カメラをかばう余裕などない。生死を共にしたFEだがデジカメが出てきてから使うことがなくなり、シャッター故障のあげく資源ごみとなった。            

HASSELBLAD 500CM planar80mmF2.8  2000年

  これも鉄の塊、本気で山に持っていく気は無かったが一度だけ赤岩で写した

スエーデンといえば、ボルボとハッセルブラッドだったのだが
2000年の9月、たまたま立ち寄ったカメラ店に500CMがあった。昔あこがれていたカメラだが、天文学的金額で、とてもとても買えるものではなかっが、このカメラの価格はリーズナブルで、私にも買えそう。程度も良く、オーバーホール済みなので、思い切って買うことにした。ウエストレベルファインダーは左右が逆に写り、構図を決定するのはとても難しく、慣れるまで大変。そのほかにも、フイルムの装填方法や、レンズの装着は独特の決めごとが多く、簡単ではない。しかし、スウェーデン鋼ボディの優雅なデザイン、カールツァイス80mmf2.8レンズは、時代を感じさせない美しさと際立った写りを見せてくれた。山には赤岩と手稲山に持って行ったが、やはり重くて持て余してしまった。

  小樽赤岩 東の大壁 Eクラック  スキャンでは6X6版の良さは出ない

登山写真家の方々のご苦労と体力に驚くばかりだ。以来20年間高価な置物として書棚のなかに鎮座していたが、終活の一環としてこれもオークションに出品すると意外なことが起こった。このカメラ特有の故障、すなわちフィルムの巻き上げが出来なくなると同時に、シャッターが切れなくなり、レンズも外れなく、ニッチもサッチモいかなくなると言う持病だ。   


     フイルムバック、本体、レンズと分かれるシステムカメラ

修理には最低3万円から5万円必要とするので、直す気にならずジャンク品として出展することにした。指値を3万円として様子を見ていると最終日に3万円を超えていく様子を見て眼が離せなくなった。次第に応札が5万6万と入り9万円を越えたころ少し気味が悪くなった。これはジャンクと銘打っているのを再確認して少し安心するが落ち着かない。   500CM80mmf2.8は、お店では程度が良い中古でも12万円程度で買えるのだが、程度が抜群に良いとは言え、このカメラはシャッターが壊れているのだから入札する人の心理が分からない。あれよあれよと上昇し、とうとう11万円で落札されてしまったではないか。いやオークションの醍醐味と言おうか、終わってみなければ分からないとはこのことだ。貴重なスウエーデン製の光学器械遺産とも呼べるカメラが、ともあれ本当に大切にしてくれそうな人に渡ったことに一安心したのであった。おかげでアイスアックス一式を買うことが出来た。

Nikon SP   2024年

  日本のカメラ最高傑作といえるかもしれない。今でいえば大谷翔平かな

日本光学精密技術の最初の最高峰は67年間を感じさせず美しい 『一眼レフカメラが,オークションで売却し、すべてなくなってしまった。さみしい思いもしたが、74才という年齢では重たい一眼レフカメラは言葉どうり荷が重くなってきたのだ。』と以前書いたが、気持ちが変わったと言うべきか。写真を撮るギアはミラーレスのGM-1かスマホになっているのは確かだが、心の支えにはどうもならないのだ。オークションを見ているうちに、若いころ憧れていても手の届かないレンジファインダーNIKON SPを発見してしまった。とうぜん、フイルムが超高額になっている現在、実用機ではない。眺めて、ただいじくるオモチャに過ぎないのだが落札してしまった。届いて驚いたのは、山にはとても持っていけないが、想像以上にキレイな状態であり、シャッターも低速から高速まで安定して切れること。問題の超精密ファインダーに曇りがほとんど見られない事だった。1957年発売なのですでに67年を経過しているにもかかわらず、当時世界最高峰のライカM3に追いつき、追い越しかけたNIKON技術者の魂とオーラが感じられる。何よりもデジカメのようなブラックボックスではなく、カメラのすべてが自分に理解できる、他に代えがたい安心感を与えてくれる。

           軍艦部はニコンFに受け継がれた

レンズマウントはニコンSマウント。もちろん、「マグナム・フォト」のカメラマンが息を呑んだという高性能なニッコールレンズが使用可能。ニコンSマウントのニッコールは、他社製カメラとの互換性がないこともあり、レンジファインダー用レンズとしては中古が廉価。SPはボディこそ中古がそれなりの値段だが、レンズについては心配いらない。Sマウントのニッコール50mm F1.4 時代を越えても存在感があるNikon SP(ニコンSP)を語る上でもっとも大きな特徴。それはやはり、28mm〜135mmまでのファインダー枠をすべてカバーする、ユニバーサルファインダーだといえる。レンジファインダーカメラでは、一眼レフカメラと違って、レンズを交換してもファインダーから見える範囲が変わることはない。そのため、ファインダー内の枠(ブライトフレーム)を切り替えたり、対応する焦点距離の枠がカメラにない場合には、ライカM3などのように外付けファインダーを装着する必要があった。

         当時最先端のユニバーサルファインダー

ニコンSPがとった解決策は、いたって明瞭なもだった。それが、必要な焦点距離のファインダー枠をすべて内蔵してしまう、というもの。当時、レンジファインダーカメラで一般的に使用されていたレンズ広角は28mmから、望遠は135mmまですべてカバーするものだ。ただし、一つの枠にすべてを収めるとブライトフレームの大きさに問題が発生する。つまり、望遠レンズではあまりに枠が小さすぎて良くわからなくなること、そして測距をつかさどる有効基線長も、短くなるためピントの精度が悪くなる。そのため28mmと35mmのファインダーと、50mm以上のファインダーが搭載された。

Sシリーズにしか使えないので意外に安いレンズだが、写りに不満は無いらしい

ニコンSPにはほかの日本光学製レンジファインダーとは異なるボディデザインが与えられた。他のどんなレンジファインダーカメラとも似ていないファインダーと採光窓をすべて覆うような大きな窓。ニコンSPを特徴づけるデザイン。それまでの国産カメラは多かれ少なかれ、ライカ、コンタックスなどのドイツ製のカメラを模倣した機構、デザインだった。ニッコールレンズの優秀さと相まって、ニコンSPは内外のジャーナリストに愛用され、ベトナム戦争をはじめとした現場で活躍した。しかし、時代はすでに一眼レフへと移行しつつあった。いくらブライトフレームがすぐれていても一眼レフのファインダーには劣ることは素人の私でもわかる。約22,000台作られたが最後のレンジファインダーとなり、ニコンFへと代替わりした。ただ、ニコンFもSPを基本ベースとしてプリズムファインダーを載せ、ミラーを組み込んだ構造であった。ニコン Fは1959年から1973年まで作られ、約80万台という大ベストセラーとなった。いろいろ書いたがフイルムが高く一枚も撮影できていない。山に行けなくなったら、カメラをいじくって頭の中でバーチャルクライミングでもするか。