『谷川岳 大バカ野郎の50年』  寺田甲子男


谷川岳 大バカ野郎の50年 寺田甲子男

社会人山岳会の先駆けとして昭和14年に誕生した東京緑山岳会を50年率いていた寺田甲子男の自伝であるが、思わず『本当か!』と言いたくなる内容に驚いた。
戦前より谷川岳をエリアとしてルート開拓、エリア研究、そして公的なレスキュー体制が出来ていない時代に遭難救出に血のにじむような行動を指揮してきたのだ。戦後、ようやく経済的にわずかの余裕ができはじめた時、東京の近場として谷川岳が若い世代に注目された。短い時間に充実感を得るにはクライミング以外にない。ナイロンザイルもなく、シットハーネスも確保器も、当然ながらカムデバイスもない。

不完全なアンカーを作り、肩確保とくれば、トップが落ちたらパートナーも引き込まれてしまう。そんな死亡遭難が毎週発生するので、谷川岳を縄張りにしていた東京緑山岳会に依頼が来るのは必然だっただろう。1931年から2020年6月までに、818名の死者と6名の行方不明者を出している谷川岳だけに詳しいレスキューの模様は悲惨で、とてもここには書けない。
江戸っ子気質の寺田は、周りと誤解と軋轢を生むが、何が有っても恐れるものがない。現代では許されない、山小屋を燃やしたり(過失だが故意に近い)、植林を手あたり次第薪にしたり、やりたい放題だが、寺田だから仕方がないと許されたのはなぜだろう? 大バカ野郎と本人が言っているのだから確かであるが。

寺田が言っている。
『スポーツだ、アルピニズムだと言っていた連中は、もう山とは関係のない生活を送っている。その時の口先三寸で勝負をするな、人生は結果だ。山は若い時だけにやる短命なものなのか。山はそんな子供たちのやるものなのか。山登りは危ない遊びだから面白い。命を代償にするからこそ、逆に真剣にやらなくてはいけない。』華麗なヒマラヤとは対極にある登攀の権化がここにいた。


谷川岳 大バカ野郎の50年 寺田甲子男 1990年