1987年5月 利尻山北稜事故
H大K山の会の遭難は不可解なことが多い遭難だ。一番ポピュラーな、そして容易と思われる北稜を登り登頂するが、下山途中で忽然と姿を消してしまったのだ。
5月3日午後に発生と推定される時間帯は、同じ利尻山北稜を3~4パーティが僅かの時間差で登っており、彼らが登っていく姿が目撃されている。
しかし、最後に登っていったパーティとはK山の会パーティは、すれ違わず、下山する姿はどこにもなかった。5月5日になり、下山連絡がないためK山の会では同じH大の山スキー部へ連絡を取り、捜索の協力を依頼した。対策本部では、なだらかでしかも雪崩の危険の少ない北稜なので、天候の悪化によりビバークしている可能性が高いと考えていたが、彼らの行方は依然としてつかめなかった。
捜索は地上と北海道警察ヘリにより同時にスタートしたが、5月7日になっても発見できず、見間違った情報が錯綜し対策本部は苦悩の色を濃くしていった。
5月10日、ヘリにより北稜上部にてブルーシート状を発見。
ついに彼らの存在を確認した。しかし残念ながら、すでに二人とも死亡していた。一人は半雪洞の中で、もう一人はそこから100mほど下方であおむけとなっていた。
発見はされたが謎は残った。確かに天候の急変はあったが、立って歩けぬ程の風ではなく、ルートも困難なものではないし、他のパーティは何事もなく下山している。
調べてみるとビバークに必要な装備は整っているにもかかわらず、それらが有効に利用された形跡はなかった。急変した天候に彼らはあせりルートを外してしまい、新人のAが疲労困憊となり急遽ビバーク。半雪洞を掘ってツェルトの中に入ったが、シュラフに入いる余裕や、乾いた服に着替える間もなくAが意識不明になり、慌てたリーダーのBは助けを呼びに行こうとしたが、彼も体力を使い果たし動けなくなったと推測された。
春山は気温が高く、天候も安定しやすいが、急変することもあり、レイヤリングが難しい。寒さを感じたら重ね着すべきなのだが、天候が悪いとチャンスを逃し、どんどん低体温症へと追い込まれていく。初めから充分な嵩のミッドレイヤーを持たず、軽装備で準備するのは論外であるのは言を待たない。
当時彼らとすれ違ったパーティの一人は、知り合いの岳友で、私は事故直後に話を聞いた。「確かに視界不良で風も強かったが、春の嵐と言えるほど天候は荒れておらず、この遭難はやはり不可解としか思われない」と語っていた。言えることは彼らにとって春の利尻山は少し早かったのかもしれない、ということだろうか。
積雪期の山はどこに入っても同じであり、柔らかな春の日差しが、急変し厳冬期の冬になる。油断すると行き詰まる。しかし簡単には誰も助けてはくれないのが山の世界だ。自分で全てを解決することが基本。知識や装備だけでは山は登れない。
1987年当時は携帯電話は復旧しておらず、緊急連絡としてはアマチュア無線しかなかった。それに比べれば今日、スマホがあれば救助要請は容易だ。
編者自身、冬の芦別岳において行動食を車に忘れ、十八線沢上部でシャリバテを初めて体験した。突然足取りが重く感じ動くことができなくなり、仲間より分けてもらった食料で事なきを得た。油断である。全くの楽観が一歩間違えると遭難に直結するのが現実である。
利尻山北稜上部