蒼氷の壁 第二章

蒼氷の壁 第二章

1998年12月31日、西壁青い岩壁を冬期初登した札幌登攀クラブパーティの詳細な報告書を丹念に読み、参考にすることにした。
完登し、自力下山したとはいえ、彼らのように強力なパーティでもトラブルが発生したという事実は、私たち未熟者にとって重い。可能性を得られないまま、計画をクラブの坂本へ持ちかけてみた。

「正月の計画を考えているけど」
「うん、どこだ」
「利尻山西壁を考えている」
「西壁青い岩壁か?」
「ローソク岩正面壁Cフェイスだ」
「あれか! いまだに未登だろう」
「そうだ、途中までは登っているけど、今日現在までに完登されていない」
「Cフェイスか、ずいぶん難しいところを目指すんだ。」
「俺もずいぶん考えた。当然自分には無理だと思ったし、今でも不遜な計画かもしれないと考えてもいる」
「不可能な壁と言っていることを聞いたことがある。おれも気にはなっていたが、そうか本気で考えているのか」
「資料は相当集めたし、現地を偵察にも行った」
「本当か!そんなことは聞いた覚えがない。お前、奥さんは承知したか?」
「未来には話しをしていない。話しを出したら反対されるのは火を見るより明らかだからね」
「いきなり話しを聞いたらそうだな。ローソク岩正面壁Cフェイスを詳しく話してくれ」
坂本に2時間をかけて私が調べた資料、写真、記録を説明していった。

「話しは分かった。充分な下調べもしていることでお前が本気なのも分かった。俺にも時間をくれ。俺なりに可能性を探ってみる。それから判断する。ただし奥さんと話をしたうえでだ」
「これが最後と約束する」
「わかった」
「了解。無理にとは当然言わないし、よく検討して納得し、賛同できたなら一緒に行ってほしい」
「期待しないで待ってくれ」
「期待するさ」
それから1週間過ぎたころ坂本から連絡があった。
「正月休暇を10日間取れたので参加する」

2003年12月30日

フェリーが島に近づいても、利尻山は暗い雲を被りその全貌はまったく見えない。厳冬期の利尻山は、月に一度くらいしか晴れる日がない、といわれているくらい天候が悪い。とうとう来てしまったという思いが脳裏から湧いてくる。利尻山は他の山と違い、どこか恐ろしい。
日本最北の山だからか、島であるがゆえに隔絶された孤独感が強いためか、いつも締め付けられるような緊張感を感じるのだ。
利尻山は何度登っていても、こちらの隙を見逃さないような魔王だ。そのささやきが聞こえるような気がする。

フェリー上で未来から電話があった。
番号を見た瞬間、どんな内容か容易に想像がついた。
「祐さんあなたに伝えようか迷ったけれど知らせます」
「なに」
「わたし、妊娠しました。今日病院で告げられました」
「本当か!」
来るべきものが来ただけの話なのだが、なにも出発の後に判明するとはタイミングが悪すぎた。
「あなたにとってよい知らせ、それとも悪い知らせ?」
「良いに決まっているさ、けど参ったな」
「わかっているわ、いまさら行くなといっても無理よね。わたし止めないわ。でも帰ってきてね、わたしを置いていかないでね」
声を殺して泣いている姿が浮かんできた。
「約束する。無理はしないしどんな事があっても帰る」

駐在所に計画書を届けた後、鴛泊からタクシーで長浜まで行き、しおり橋より西大空沢に入って行く。積雪はタクシーの運転手が行っていた通り少なく感じる。しかし、10日分の食料、燃料の重さは半端ではない。この重量で、あの尋常ではない壁を登りきることが出来るのか、早くも弱気が出てこようとしたが、坂本をふりかえる。目を合わせてると深くうなずいた。

「長谷川、どうした、計画が実行できるのでうれしいのか。まるで子供みたいなやつだな」
「皮肉を言うなよ。うれしいのと恐ろしいのが半分だ」
「そうか、誰だって初めての壁にむかう時はそんなもんだ。俺だって今でもうかつに乗せられてしまったかな、なんて卑怯なこと考えていたのさ」
「壁に取り付くまでは気持ちが乱れるよ。ロープを結んだら登ること以外のことはすべて忘れるけど」
「誰も登っていない壁だぞ、自分の能力の限界を試すことが出来るんだ。最悪の条件で最悪の壁を登れるのはアルパインクライマーとして喜びだろう。とはいえ本音じゃないのはばれるけど」
「俺も同じだ、格好の良いことを人前で話すがいつも怖いよ。でも、それ以上に期待感が勝っているんだ」

冬壁装備のザックの重量が肩に食い込む。例年より積雪が少ないとはいえ、輪環が沈み込みスピードは上がらない。
こんな調子で、はたして未登の壁を登ることができるのだろうか、計画を立て以来常に考えていた問いだ。
答えは進む先にある、漆黒の闇にあるに違いなく、ほかの誰でもない自分たちが出すことになる。
後を振り返ると、我々の気持ちを表すように足跡が乱れていた。しおり橋から五時間でレリーフ手前に到着。積雪は50センチメートル程度なのでずいぶん少ない。
さらに一時間進むと、門の手前に着き、手前の左手斜面3メートル程度の高さに何とか雪洞を掘り、中にツエルトを張ってC0とした。この場所においては、雪崩の心配はないだろう。
時間的には早いが、過去にも天泊中に雪崩でやられた前例があり、進むには危険がおおきくて入れない。
雪洞は湿度100%であるが、入口を塞げば風の影響は全く受けずに済むし、ショベル一本あると、テントのような重量物を持たないアルパインクライミングにおいて最適な宿泊方法だ。
内部は、外気が氷点下20度を下回ろうと、ローソクを灯しただけでほのかに暖かい。ガスストーブ、ボンベが有るとビバークはいくらでも可能だ。
ただ、快適な夜を過ごせたとしても、表の様子は全くわからないのが欠点と言えるかも知れない。
夕食のあと明日のためにすぐシュラフに入ったが、目が冴えて眠りにつけない。

「長谷川、眠れないのか?」
「ここまでのラッセルで疲れているはずだが眠れない」
「おれもだ」
「ルートは頭の中に叩き込んだから考える必要はないと思ってもいつの間にか浮かんで来る」
「同じだな、1ピッチ目はこう、3ピッチ目はこうだと計算している自分がいる。お前には悪いけどとんでもない話に乗ってしまったと考える自分がいやになる」
「そうか、悪かったな」
「冗談だよ。来たいから来た。お前とならCフェイスが登れると判断したんだ。決めたことに間違いなどない」
「ありがとう。なんとしても核心を越えてダイヤモンドフェイスへ抜けよう。どんな手段を使っても。そのために重いギアを持ってきたのだから」
静かな夜は明日への期待を抱かせるより、むしろ不安を現しているような気がした。

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