北アルプス鳴沢岳遭難事故

2009年4月 鳴沢岳遭難事故

2023年9月2日5:30 私は北アルプス後立山連峰の鳴沢岳頂上に居た。
無風晴天の頂上は2010年4月の嵐を想像させることなく穏やかであった。
鳴沢岳西尾根の頭、黒部川へ落ち込む西尾根を眺めても惨事を思い起こすことはできない。当時の私は山登りから少し遠ざかっていた時期だが、丸山東壁、黒部一帯の冬壁開拓で名を成していた伊藤達夫が遭難したニュースを聞いて心底驚いた。その後報告書がでたとの報を聞き、調査委員会から送っていただいた。 
何度も読み返したが、調査記録だけでは納得のいかない事柄が多く、一度鳴沢岳に行くことを考えていたが、ようやく現場に立ち、不明な点が少し見えたような気がした。

鳴沢岳遭難事故報告書による鳴沢岳西尾根登高と遭難事故発生の経過概略は次の通り。
2009年4月24日、京都府立大学山岳部コーチ伊藤達夫、同山岳部SS,同山岳部主将AAの三名は長野県大町扇沢にて車中泊した。翌25日、黒部ダム経由で入山、西尾根稜線上で天泊した。
この時、24日にはすでに黄海には南北に並んだ二つの低気圧が進んできていた。
26日天候は発達する二つ玉低気圧通過による悪天候が予想されていたが、午前中いっぱい比較的穏やかな天気に行動を続行してしまったのだ。
26日22時になっても下山連絡がなく、27日10:25に大学内に遭難対策本部が設置された。27日~28日かけて富山県警と長野県警によって鳴沢岳一帯が捜索された。
その結果、27日一名が発見され、翌28日に残りの二名が発見されたが、残念ながら三人とも死亡していた。
全員が死亡したため事故に至る経過の真相は不明だが、残された写真と伊藤が持参していたGPS受信機のログ、装備、着衣、気象の資料からおおよその事故発生の経過が明らかになった。

遭難が発生した鳴沢岳西尾根から鳴沢岳頂上付近の地理関係は、黒部川下の廊下内蔵助出合いから十字峡の中間地点から西尾根末端がある。
25日、黒部ダムまでトロリーバスで向かい、ダムから黒部下の廊下に出ていくが、すでに雨が降っていたとみられ、三人とも雨具を上下身につけていた。
しかし、気温が高く雪も少ないため、ヘルメットは被っていたがアイゼンは装着しておらず、オーバー手袋もしていなかった。
10:20尾根に一度取付いたとみられるが、下部岩壁帯が手強かったのか一度黒部川に降り、何度か下部岩壁帯を偵察し16:30頃ようやく西尾根の本体に到達した。
このため、予定では高度2,000m地点まで行くはずが、高度1575mというはるかに低い位置でテントを張らざるを得なかった。
これは翌日の行動に大きな影響を与えることになり、低気圧の影響で大荒れの真っただ中を鳴沢岳頂上まで1,000m以上登っていくことになってしまったのだ。
二つ玉低気圧通過による悪天候を、三人はどう見たのか全く不明だが、登行続行と結論したと想像される。
私の想像でしかないが、2023年に頂上から西尾根を見下ろした印象では尾根中間部までは森林地帯、上部は緩やかな尾根となっており、岩稜や切れ落ちたナイフリッジなどは全くない。そんな尾根であれば多少荒れても登り切れると結論を出したのだろうか?
もし、荒れたとしても戻って黒部ダム経由で帰るより、一気に登り切って扇沢に降りる方が早いと判断したのではないだろうか。

26日 6:11から行動を開始したことがGPSのログに記録している。
 すでに天候は悪化の兆しが見られ、アイゼン、オーバー手袋、ピッケル、ヘルメットを装着して行動していたことが写真から確認できる。
 8:00一時的に天候が回復したようだが急速に悪化する前の疑似天候であったかもしれない。11:23西尾根2,295mで休憩する姿を最後に写真はない。
 この写真には追い込まれている緊急感などは感じられないから、まだ風はそれほど強くはなかったのかもしれない。この後どれほど急速に悪化していったのか想像を絶する。
 ただ、ここまでは三人はつかず離れずの行動だったのが、このあたりから次第に離れていったのだろう。
 一緒の行動をとっていたならば、引き返すことが無理でもビバークを難なく余裕をもって出来たと思われる。
 ここからは伊藤のGPSのログから伊藤のタイムラインを得て16:10鳴沢岳を越え、小ピークで小さな雪洞を堀り退避したが、26日夜から深夜にかけ死亡したとみられた。
 後続のSSは偽ピークから100m程滑落し16:00頃死亡と推定される。
 最後尾のAAは鳴沢岳頂上に達することなく30m手前で死亡。
 全員低体温症とみられる。

三人の遭難位置から明白に言えることは経験、力量の順になっていることだろう。森林限界を過ぎてから三人の間隔は相当離れてバラバラに行動した事により、最後の引き返すチャンスが失われた。例えば、引き返すことが不可能であってもAAが持っていたシャベルが有れば適当な位置に雪洞を掘る時間はあったと思われる。
何故、伊藤は自分だけが先行し、後続の二人を待つことが出来なかったのか、自分の直後を続いて来ていると思い込んでいたのだろうか? 一つのパーティは見える範囲内で動くのが鉄則であり、見えなくなったら待つ事が常識の範囲内だが、伊藤の行動は理解に苦しむ。学生の二人にとって、伊藤についていくだけで精一杯になり、自分を守ることができなくなったのだろうか?
報告書によると共同装備の分担にも疑問がある。行動面から見ると最後尾だったと思われるAAが、テント・シャベルを持参し荷物が14-15Kgと重く、伊藤が10Kg程度と最も軽くなっている。クライミングであれば、トップを行くリーダーを軽くする必要がある。 
しかし、西尾根はそうしたルートではない。出発前にAAのザックを見て、伊藤たちが「何がこんなに入っているのかね」と言っていたとの記述がある。
軽量化できなかった結果なのか、それともテント等をAAがすべてもったためによる重荷であったのかは不明だが、最後尾となる理由がここにあった。
AAしかシヤベルを持たないが故に、追いかけて伊藤と合流し雪洞を掘ろうとしていたと見るのが合理的な考えだろうか?
伊藤が二人を待たなかったのか、それとも待つ余裕がすでになくなっていたのか、今となっては分からないが、パーティ崩壊の原因が伊藤の判断誤りであるのは、残されたGPSログ、写真、服装、死亡時の状況から明らかであると報告書は結論付けている。
部外者で、15年後に報告書を読んだに過ぎない私だが、遭難理由とパーティ編成の歪さに暗澹たる気持ちに陥ったのは否めない。また、伊藤の性格なのか、先鋭的クライマーに見られる独善的な面を指摘する記述もみられた。 

大学山岳部における特有の問題点もここにはあった。伊藤は信州大学出身で京都府立大学ではないが、コーチとして指導にあたっていたようだ。OBと学生が密接に結びついた時代と違い、経験にしろ技術でも継承がうまくされないのかもしれない。大学の基本4年間では、山行を重ねていても経験に足りないものがあるのだろうか。先日2024年8月に10人という大人数の大学パーティが、上高地から日本海の親不知まで2週間の縦走を実行し、一人が不動岳のリッジから滑落し、死亡した事故が発生してしまった。これも30kg級のザックを担ぎ、危険なリッジを通過していくという大学山岳部に有りがちな無理な山行が認証されているのではないかと思われる。普通に考えると危険で困難なルートを行く場合、極力軽量化し、少人数で素早く行動するのだが、時間に余裕があるがゆえの山行だったのだろうか。

伊藤の不可解な行動をどう理解するかについては、報告書は伊藤の個人的な資質と登山観に大きな原因を求めている。「独善的で他を顧みない」と指摘されたが、他方で伊藤と山行を共にしたOBの話から熱心で冷静な姿が話され、報告書にある人間像とは対極の姿がある。いずれにしても極端に偏った人格ではなく、極限状態での判断と冷静さが事故を招いたのかもしれない。
どんなに優秀な人でも間違いは起こりうることを忘れてはならないだろう。

参考文献
平成21年4月北アルプス鳴沢岳遭難事故調査報告書
           平成22年3月  鳴沢岳遭難事故調査委員会
                     京都府立大学山岳会

    右下黒部川に延びているのが西尾根  はるか先に立山、剱が見える