黒部水平歩道
2023年10月25日
10月25日(水)
6:48の北陸新幹線に乗り、黒部宇奈月温泉駅で松本電鉄に新黒部駅から乗る。ローカル色満載の車両は面白い。外国人観光客が多数いるので黒部トロッコ列車は相当認知されているらしい。線路の側に生えている灌木をなぎ倒す勢いで進み宇奈月温泉駅到着。トロッコ列車駅は離れているので歩き、始発に飛び乗る。普通席は開放しているので、走り始めたら相当寒い。雨具を重ねても足りないくらいだ。景色は文句無し。
10月下旬になると吹きさらしの車両はダウンが必要だが、気分は最高だ
形は一人前だが大きさは極めて小さく、車両内はしゃがんで歩かなければならない
トンネルは狭く手を出すと無くなる。9:33欅平駅到着。立ち食い蕎麦600円食べてから不用品をコインロッカーへ治め、登山道を欅平駅から350m真っすぐに登らなければならない。350mの高度差を登るのに一時間近くはかかるので、水平になるまでは我慢勝負には違いない。ツズラ折りの坂は階段や木道が続くので歩きやすい。
今回はジオグラフイックも設定していないし、GPSも持たず、そのうえまともな地図も持っていない。さらに行動食も買うのを忘れるという4失態を犯してしまった。
持っているのは一リットルの水だけだ。山道ではない水平な道を往復するだけという大甘の考えは最後に手痛い目に合う。
しかし、今は先を急ぎ大太鼓まで行かねばならない。木道が設置された道は歩きやすく危険は感じない。そのうち壁に番線が張られ、掴みながら行くととても安全である。
ただ、道幅は一メートル未満なのですれ違う時にはどちらかが道を譲らねばならない。
もちろん、普通の山道でも当たり前な行為なのだが、ここでは蹴躓いてもよそ見をしていても落ちたら地獄行になる。たった一か月ほどの開通だが、毎日驚くほどの人々が通っていく。その中で時折転落者が出るらしい。『黒部に怪我は無し』という言葉があるとおり、落ちたら死んでしまうことを言い現わしている。
黒部川から100m以上の岩壁にほとんど水平に人力で掘られた歩道
落ちたらただでは済まないが、壁に番線が張られ足元は整備されている
10:00からスタートし、まもなく阿曽原温泉からの歩行者が続々と現れた。若い人は少なく、年配者が多い。その中でもガイドとおぼしき若者をリーダーとしたパーティが目立つ。
送電線鉄塔を二つほど通過した後は完全に水平歩道の領域に入ってきたようだ。
暗くなる前の16:00には祖母谷温泉小屋まで行きたいので、引き返す限界の時間は12:30が限界だろう。果たして大太鼓は可能なのか?
今回は来年に実行したい下の廊下への下見だから、ほどほどで良いのだが少なくとも全行程の四分の一は歩いておきたい。しかし、紅葉真っ盛りの黒部渓谷はあまりに美しく、立ち止まって写真を撮ってしまう。昔よく話に聞いていた奥鐘山西壁の大岩壁が黒部川から真っすぐに立ち上がり、視界に入ってきた。
奥鐘山西壁の大岩壁は迫力がある
これはすごい、大ハングが連続しており、高低差は日本一とも聞いていた。
開拓時代を過ぎ、今では登る人がいるのかわからないが、アルパインクライミングをする者にとっては憧れのひとつであった。
眺めてばかりでは先に進まない。スタートしてから五時間以内に欅平に戻り、さらに一時間歩いて、今夜の宿である祖母谷温泉小屋へ行かなければならないのだ
そのうちに短いトンネルが現れ、ようやく志合谷トンネルが近いことを知った。
谷から立ち上がる尾根や岩壁を一直線に水平歩道が横切るさまは見事なものだ。
ところどころトンネルが掘られている
人間の力は小さいけれど、電源開発を行うんだという強い意志を示している。
もっとも、それは高級官僚、電力会社幹部たちの使命感だろうが、土木作業員たちは高額な賃金と家族を養う義務感だけで働いたのではないだろうか。
吉村昭の『高熱隧道』に出てくる人間模様は地獄に近い。400人を越える犠牲者を出してもトンネル掘削を貫徹してしまうのだ。現代ではとても許されない労働環境なのだが、技師が指示を出し、作業者が掘る。地熱の高い岩盤地帯では掘れば掘るほど気温が上がり、吹き出していく水温も優に100℃を越え160℃に達する。これはダイナマイトが自然に爆発する温度なので、岩盤に穿孔した穴に入れただけで誘発してしまう。
何人犠牲者が出ても逃げ出さない、中止にしない様は大きなことを成し遂げるための大いなる意思を感じてしまう。ようやく完成しても、工事にかかわった誰しもが心から万歳していることはなかったらしい。犠牲者の上に成り立つインフラ、それが良いことであるとは決して思わないが、安定した電力を享受している我々は忘れてはならないだろう。ここを歩いている人は皆それを感じずにはいられまい。
志合谷トンネルは約150m以上の上真っ暗で水がたまっている
真横に延びた水平歩道
と考えているうちに志合谷トンネルにたどり着いた。ここは雪崩の通過地点に当たる谷を避けるために掘られた。150mの長さがあり、当然照明はない。しかも常時水滴が天井から落ちてきており、床に深さ7~8cm水が溜まっている。アプローチシューズでは完全に水没してしまう。谷をかわして掘られたため大きくカーブしており先はまったく見えない。当然ヘッドランプがなければ先へ進めないし、高さが低いのでヘルメットも必要だ。
大太鼓まであとわずかな距離となったが時間はすでに13:00と、決めていた12:30を30分超過してしまった。限界である。欅平を出て2時間半、ここで引き返して早くて15:00。
何時間も歩いていると少し飽きてくるが、これが油断である
昨日からの疲れを考えると15:00には着くとは限らず、30分以上かかるかもしれない。
最悪16:00に欅平に到着し、祖母谷温泉小屋には17:00頃になってしまう。
黒部の谷は深く、秋の夕闇は早くに訪れるだろう。
そんな中を、トボトボ高齢者が歩くのは情けない感じがする。
焦る気持ちを抑えつつ、足早に帰路をたどると何とか15:00には欅平駅に帰還した。
10:00に立ち食い蕎麦しか食べていないので空腹であるが、祖母谷温泉小屋へ少し遅れるとの電話をしなければならない。うまく電波を掴めず焦るが何とか電話して連絡を終えた。
ロッカーに預けた荷物を、出して無理やりザックに詰めて駅を出た。
坂を下りていくまでは良かったのだが、橋を渡って傾斜が出てきたとたん動きが緩慢になってしまった。足が出ないのだ。昨日からの疲労の蓄積がここまでたまってしまったとは考えもしなかった。決して急坂ではないのに足取りは重く動きは鈍い。
果たして一時間で到着できるのだろうか?こんな足取りが重くなる経験は今までにあっただろうか?これは疲れだけではなく、おそらく行動食を持たなかったためのガス切れに違いない。とはいえ、ただの道路を歩くだけだ。時間だけが勝負だ。
最後のトンネルをくぐったらまもなく祖母谷温泉小屋が見えるはずだ。
トンネルに入る寸前に雨が降って来たので雨具を着る。トンネルははるか彼方に出口が見えているが遠い。10mごとに休憩を繰り返しようやく出口に達した。
正面に祖母谷温泉小屋の明かりが見えてほっとした。
祖母谷温泉小屋は野趣豊富な露天風呂が気持ち良い
収容25人程度なのでフレンドリー
山で露天風呂温泉は長生きできる
山小屋に到着してこれほどうれしかったことはない。いつも早朝5:00前には出て、小屋には必ず午前中には到着するように心がけているのだから今回は異例だ。倒れこむように入り口の戸を開けて入り、まずコーラを買って一気にすべて飲んだ。
早速、売りの露天風呂へと向かい汗を流した。風呂は川のすぐそばにあり、野趣満載である。ここまでは欅平駅から歩いて一時間程度かかるし、あとは白馬岳から下山、唐松岳からやはり下山の三通りでしか来ることが出来ない、秘境温泉宿小屋なのだから空いていて気分が最高だ。とりあえず今回の計画はここに到着するまでだ。明日は欅平駅まで下り、トロッコ列車で宇奈月温泉駅まで出て、富山電鉄で富山駅まで出ればよい。特に予定などないのだから気分的には楽だ。
同室の男性は同じ年齢で東京から温泉巡りに来たらしい。コロナ以来登山はやめて気軽に秘境温泉を探訪している。話をしていると小屋のおばさんが何やらペットボトルとピンセットを携えてやってきた。なんだろうと思っていると、カメムシが異常発生してるとのことだった。よく畳を見てみると、なるほどあちらこちらに居るではないか。
寝る前までに15匹くらい捕まえたが寝てから布団に入ってきたら嫌なのだが。
素朴だがおいしい
このような小規模の山小屋、旅館などでは食事に独自の特徴があり、おいしい。
ここ祖母谷温泉小屋も例外ではなく、きの子汁、ツケマグロ、コロッケ、わらびの煮物、枝豆、キュウリのスモノ、たまごなど質素だがおいしい。
今夜の客は単独が三人、夫婦一組、環境調査の業務組六人、と11人と大変少ない。今が紅葉真っ盛りで、黒部トロッコ列車の最盛期と思われるがどうしてだろう。
もしかすると夏山期の白馬岳、唐松岳からの下山でにぎわうのだろうか?
阿曽原温泉との関連も考えられる。コーラを買ったが350ml缶が\200と安いのは車で運べるからだろう。
朝食は山小屋というよりは旅館といった感じで7:00と相当遅い。大きな卵焼き、つくだ煮、納豆、ノリ、かまぼこといった簡素なものだがお代わりしてしまった。昨日のシャリバテの反省だ。8:30天気も良く、帰りは完全に下りとなるので昨日のようなことはなく、快調に下っていく。9:16欅平駅到着。
2024年秋に、黒部ダムから欅平までの計画詳細も立てていたのだが、2024年1月1日の能登地震で御破算になってしまった。3月の初めにトロッコ列車の鉄橋が落石のために破損していることが判明したのだ。たいしたことはないだろうし、すぐに復旧するとみていたが、続報を探ると次第に暗いニュースばかり飛び込んできたのだ。
黒部市発表『令和6年能登半島地震の影響から黒部峡谷鉄道の鐘釣橋が落石により損傷し、黒部峡谷鉄道の全線開通(欅平まで)は、令和7年度シーズン以降となります。黒部峡谷鉄道の利用が不可欠である欅平・祖母谷周辺の宿泊施設についても現在営業を行っておりません。白馬岳・唐松岳~祖母谷間の登山道につきましても、登山道整備及びパトロールは実施予定ですが、周辺施設の営業休止や地震被害についても不明確な点が多いことから、例年と同水準の安全確保や救助対応が難しい状態です。登山客の皆様におかれましては、今シーズンの本登山道のご利用をご遠慮くださいますよう宜しくお願い致します』
調査が進むにつれ、鉄橋の破損自体より上部の岩壁に危うい岩の塊が存在し、それを撤去する方法がすぐには見つからないとされ、2024年度中にはトロッコ列車は運休となった。
これはショックなニュースであった。これが使えなければたとえ下の廊下が歩けても黒部市に抜けることが出来ない。つまり黒部ダムへ引き返すしかないのだ。
これでほぼ下の廊下計画はダメになった。追い打ち意をかけるように阿曽原温泉の2024年営業中止が発表された。それはそうだろう。
祖母谷温泉も休業と聞き、2023年に行けて良かったと思う。
いける時に行く、チャンスは二度ないかもしれないと改めて思う。