『酔いどれクライマー永田東一郎物語』  藤原章生

       k7初登頂 TUKRE84    酔いどれクライマー永田東一郎物語


『永田東一郎』一昨年に知人より、毎日新聞に掲載された『酔いどれクライマー永田東一郎伝』の新聞記事コピーを送られるまで、その名前を聞いたことがなかった。山をやっている人であっても、恐らく同じかもしれない。紙面のコピ-を読んでいくうちに、カラコルムの『K7初登攀』の登攀隊長であることを初めて知った。
1984年8月、登山を開始してから2年目であった私にも東京大学スキー山岳部の、現役学生パーティK7初登攀は聞き及んでいた。それがどのような意味を持つことになるのか当時はよくわからなかった。新聞のコピーには彼らが利尻山東稜、仙法志稜、西壁青い岩壁等に遠征していた事が書かれていた。2016~2018年までの間に利尻山の登攀について、歴史的資料を集めていた私にも初めて知る記録であった。

彼らの行動は、まだ春とはいえない3月に初見で、難易度の高いルートに取り付くという志の高い、あるいは無謀とも言える内容だった。一歩間違えると何人も死者が出ても不思議はない。幸い事故騒ぎにならず済んだので、道内のニュースには当然ならない。まさか、3月の青い岩壁にトライした人達がいたとは。
利尻山の後に彼らが『K7初登攀』を達成していたとは当然知らなかった。
当時の資料『K7初登頂 TUKRE84 東京大学スキー山岳部カラコルム学術登山隊1984』を探しだした。その綿密な記述は当然としても、登攀ルート図の詳細さに驚いた。

その後、2023年に山と溪谷社から単行本が出されたのですぐに買った。
永田東一郎が相当変わった人物であることは、本を読み進めていくうちに、東京の上野高校の何でも許される雰囲気から、特に上下関係の重要さを会得出来なかったことが知れる。
それは、彼の強みでもあり、最大の弱点であったと想像される。隊長としてK7遠征の交渉事、ルート研究のための資料収集、資金など遠慮なく進める力無くしてK7は成功していないだろう。とはいえ、K7遠征から日本に戻り、間もなく山登りそのものをやめてしまったのは何故なのか?

『頂上は やはり普通の頂上だった』
とは何を意味しているのか?本人以外に分からない。それは第一次登頂ではなく、第二次登頂となった事なのか、アルパインクライミングではなく、時代遅れになりつつある固定ロープをベタ張りにする極地法を実施した事によるのかは分からない。海外隊、国内隊6パーティが失敗した登攀を、初登攀したのだから得意満面になるはずだが、そうはならなかった。
本を読んでも本当のところは分からない。しかも、せっかく建築事務所に就職しても長続きせず辞めてしまうなど、ヒマラヤ遠征で見せていたマネージメント能力は全く見当たらないのだ、

自己中心的で相手の意思を汲み取れない。結婚しても生活能力が無く、酒に溺れていく。彼の父親もアルコール依存症で若くして亡くなつており、子供の東一郎に多大な影響があったのだろう。本当か嘘か知らないが、アルコール依存症は遺伝的体質があると聞いたことがある。知り合いにも親子して依存症の人がいたので、なんだか納得した。

56才で父を亡くし、自分はさらに若い46才で死去したのだ。


人柄は悪くない、でも要領が悪く自分をごまかせない。自分や家族を困らせた父親の真似を、避けようとすればする程近づいていていったのかもしれない。人柄は悪くないから友人、知人から心配されるが、蟻地獄からの脱出はヒマラヤ遠征より数倍を超える困難であったのだろう。

参考文献

K7初登頂 TUKRE84 東京大学スキー山岳部カラコルム学術登山隊1984 東京大学スキー山岳部

酔いどれクライマー永田東一郎物語    藤原章生著  2023年 山と渓谷社