蒼氷の壁 第六章
1月3日
夜があけても風雪は強く動けそうにないため停滞とする。ここに閉じ込められたことを想定し携帯電話の確認をすると、私の携帯はバッテリーがいつの間にかゼロになっていた。
電源を切り懐に入れていたが、外気の寒さのほうが体温にまさった結果だろう。坂本に携帯を求めると口ごもり、3P目あたりでバッテリーの残量を確認しようとして基部まで落としたと言う。
申し訳なくて言い出せ無かったと。ということは外部への連絡手段がまったく無いということだ。予備日を含めた下山連絡最終は1月6日15時となっているのでそれまでは何かあってもレスキューは来ることはない。
坂本の体調が怪しくなっていくなか不安が増した。日が替わったが風雪が強くクライミングはできそうにない。坂本の回復を待つ必要もある。
雪洞での停滞は燃料を節約できるので無理をしない限り頑張れる。
だが少なくてもダイヤモンドフェイスを越えなければローソク岩第一リッジに到達出来ない。
頂稜にさえ出ることが出来たならば自力下山も可能であるし、まだ判断する状況では無いが、動きが取れなくなりレスキューを依頼する場合でもスムーズだ。今日まできわめて順調にこなしてきた計画が、気づくと窮地に追い込まれそうな事になったなんて、誰が想像できようか? 今はひたすら体を休め、天候の回復を待つしかないのだ。
1月4日
下山予定日になってしまった。C3~ダイヤモンドフェイス~ローソク第一リッジ~北稜~下山は天気が回復気味の今であっても多分二日を越える違いない。坂本は停滞の間に体調が回復したかに見え、食事も取れてきたので本日の行動を決めた。
可能な限り自力で下山したいが、どんなに強気に考えても下山のラッセルは一日ですみそうにない。いま我々にできることは利尻山の頂上に出ることである。すべてはそれからだ。
ダイヤモンドフェイス~ローソク第一リッジ~頂稜
7:30 C3
1P目 25メートル 浅いジェードルから外傾フェイスを左上していく。Cフェイスの重圧感もなく周囲に開けているので心理的には気が楽なのだ。岩にへばりついている氷を剥がすと残置が所々見つかった。左手カンテにてビレイ。
2P目 20メートル すぐ右手のクラックから一段下がり、浅いルンゼを右へトラバース。さらに左上してジェードルに入り左手外形テラスでビレイ。
3P目 25メートル テラスからブッシュを経てカンテに出る。その後左上、ブッシュを利用して浅いジェードルに入りビレイ。朝回復したかのように見えた天候はいつの間にか悪化してきた。
利尻山の天気は常に変化し見極めるのが難しい。
4P目 20メートル ハング気味のブッシュを掘り起こし、スリングを巻きつけエイダーに乗る。足を踏み込んで思い切り立ち上がるとローソク岩が眼前に現れ、すべての核心部を越えたことを知った。
今日の出だしから空身でリードし、ザックは荷揚げとしスピードアップを図ったのが功を奏して早くはなったのだが坂本の動きが一昨日同様に緩慢になってきた。 13:30
5P目 20メートル ローソク第二リッジは傾斜もなく足元に気をつけながら歩くだけでやさしい。第一リッジに出たところでピッチを切る。
6P目 45メートル ローソク第一リッジは完全な岩であるが細いために跨いで登っていく。風がまともに当るためバランスを取るのに苦労した。坂本の動作は風によりふらつくほど悪くなりビレイする手にも力が入った。
「坂本! もうすぐだ。あと10メートルで終了だ。もう登らなくて、いいんだ。頑張れ!」
返事に力がなく弱い。ローソクピークより40メートル一本で本峰へのコルに懸垂。コルに降り立った瞬間、ガスが晴れ、あたりは日本海に沈む夕日の紅色に覆われた。風に舞い上がる粉雪は紅蓮の炎のように燃えている。明日の天候に期待は出来そうにない。われわれを焼き尽くすかと思われた燃える稜線は、まもなく白い闇へと戻った。
16:20 全ての登攀が終了し、急速に暗闇が迫ってきた。
坂本の動きが緩慢になり、話しぶりも呂律が回りにくい状況は低体温症に間違いなく陥っているだろう。
手を打たねば状況は急速に悪化していくのは素人の私にもわかる。スノーバーを打ち込み坂本にセルフビレイを取ったあと、私は雪洞を掘り続けた。
完成した雪洞に坂本を引きずり込み、シュラフの中に入らせた。ガスでお茶を沸かして飲ませたが、あまり呑めないようだ。
会話がのろくなり既に震えもなく意識朦朧となってきた。体温計をもたない我々に体温を測るすべはないもののこれは体温低下が著しいものと判断せざるを得ない。
雪洞は完全に風を防ぐことが出来るので、風で破壊されない限り、氷点下5度程度以下にならないとされている。
それでも軽量ダウンシュラフの保温は期待できない。
充分な食事と暖かい飲み物を継続して取ることができないと、重症に陥るのは素人の私でも分かる。
これ以上歩くことは困難であろうし、無理して歩かせ筋肉を活動させると、冷えた血液が心臓に流れ心停止する可能性が大だ。
できることは救助要請してヘリでピックアップしてもらうことだ。
下山連絡の時間であるが、バッテリーの切れた携帯電話は何の役にもたたない。計画では予備日があと二日あるので1月7日15:00でようやく救助活動が始まるだろう。
それまで待てるか? 待つことにより坂本を見殺しにしてしまうのではないか? ただ、今日の時点で下山もしくは停滞連絡が入らないと、何かが我々に起きていると判断され、救助体制を組む待機状態になっているだろうし、それを信じたい。
18:00 表を見るとすでにあたりは風雪の暗闇となっていた。
最終章に続く