蒼氷の壁 第三章

蒼氷の壁 第三章

2003年12月31日
6:00 雪洞の中から外を見ると、昨夜のうちに30センチメートルほど降雪があったようだが、現在は止んでいた。準備をして歩き出すと、輪環であっても股近くまで沈み込む場所もある。
左股に入るにつれて、股ラッセルとなり、さらに時間を食うが急げない。傾斜がきつくなるにつれて、小さな雪崩の痕跡デブリが現れ始めるので、緊張感がいやでも高まってきた。坂本が先行し第一コルを目指す。


「長谷川、デブリが現れたから少し離れてついてきてくれ」
「わかった。ラッセルの交代はいつでもするぞ」
「後で頼む」
坂本の先へ目を向けるとスーッと粉雪が滑るように脇を流れはじめるのが見えた。
「来るぞ!雪崩れるぞ!」
坂本へ向って叫んだが気がつかない為さらに大きく声を出した。
「右上から雪崩が来るぞ!逃げろ!」

坂本は泳ぐように左へ身をかわしても、半身雪に埋まった姿勢では1メートル程しか動けていない。
表層雪崩は、左へ逃げた坂本の脇を音もなく通過し、私の右側面を下っていった。間一髪であった。これははじまりに過ぎないだろう。さらに上部は、当然のことながら雪崩の巣と化し、いつ何時自分達の荷重で発生させるか、またはダイヤモンドフェイスからのチリ雪崩により大斜面がくずれるかもしれないのだ。
もしかすると、ここからCフェイス基部までのアプローチの方が、肝心のローソク正面Cフェイス核心部より危険度は高いかもしれない。左股斜面を越えていかねば、肝心のルートに勝負をしてもらえず、文字通り門前払いとなる。周到な準備をしていても、敗退ではあまりに情けない。とは言え、可能性がないまま突っ込んでは待つのは死だ。無駄死には愚か者の結論である。一途な情熱があっても、クールでなければ生き残れないだろう。
愚か者にならないためにはどうするか?
西大空沢二股より一歩踏み込んだからには、北稜の長官山避難小屋に至るまで一時の油断も許せない。気を抜いた時に大きなリスクが現実化するに違いない。
C0からほぼ五時間強で第一コル手前の露岩に到着し、時間的に早いが雪洞を掘りC1とした。

「明日の大斜面トラバースは核心の一つになるな」
「予想した通り、踏み込むと足元から持っていかれるのでスノーバーを使おう」
「気休めにしかならないけどないよりは良いさ」
「過去の記録ではロープを二本つなぎ約80メートル程度で中央リッジ取り付に到達出来るようだが雪状態次第で変わるだろう」
「先人が確立したトラバース方法とはいえ運しだいだな」
「運も実力のうちというから俺たちは試されるのだろうか」
「そういえば『試される大地 北海道』というキャッチフレーズがあるな。試されたあとどうなったのかな?」
「たいしたことにはなっていないのは確かだ」
「いやな事思い出した。すまん」

2004年1月1日
7:00 C1発
「こんなところを行くのか」
大斜面は先人と同じ台詞が思わず出たほど険悪極まりない光景であった。斜度は30度ほどか、感覚では45度もあるように見える。ここをトラバースしなければならない。
ほかに手段はないのか周りを見渡したが、当然あるはずもなく中央リッジ基部まで最短距離で渡っていくしかない。
第一コル上部の壁沿いにラッセルし、少し安定した地点でハーケンを二本打ち込む。

「坂本、おれから行くのでよろしく」
「任せておけと言いたいがなるべく落ちるなよ」
「そう言われても足を踏み込んで見なければわからない」
「足元も危ないけれど上部からのチリ雪崩にも気をつけろ」
「じゃあ頼む」
 

ロープを二本結んで、約100メートル弱の長さにつなぐ。ランニングビレイは真ん中付近にスノーバー一本だけだ。プロテクッションとして利くとしても、基部到着寸前に斜面を落ちてしまったならば、80メートルの半分、40メートル近くルンゼに向かって飛んでいくだろう。
 それで止まればまだいい。スノーバーが抜けたら恐らく私もビレイしている坂本も、西大空沢まで落ちていくかもしれない。そのときは装着しているロープも遺体捜索の役にしかたたないだろう。
 躊躇しているヒマはない。時間がたつにつれ状況は悪くなっても好転はしない。覚悟してトラバースを始めた。
 ひざ上から場所によっては腰の上を越える深雪は泳いでいるかのごとく手ごたえが無い。
 体の前にも後にもひっきりなしにチリ雪崩が流れていく。後を振り向くとたった今通り過ぎた足跡は消えていた。
 30メートルも過ぎたあたりでは坂本の姿は霞んでほとんど見えない。もう引き返せない。それからは振り返ることなく中央リッジ基部へまっしぐらに進んだ。
 あともう少しだ、たとえ雪崩れようとも目の前に基部がある。全神経を張り詰め、息を止め思い切って潅木に手を伸ばした。
 潅木と露岩にハーケンを打ち込みアンカーを構築すると、緊張の糸が切れたように感じたが坂本を手繰り寄せるまでは安心できない。
 坂本が渡り終わったのは雪洞を出てからすでに六時間を過ぎていたが、これで終わりではない。少なくてもこれから左岸、すなわち中央リッジ基部にそって、ローソク岩正面壁Cフェイス取り付きまで、斜面を登らねばならない。大斜面よりプロテクションをとりやすいとはいえ、足元は安定していないだろう。
 長い一日だが気を張っているので時間の概念を忘れそうになる。それは非常に危険な兆候といえる。
 斜面を上がって行くのだから当然傾斜が大きくなり、ラッセルも胸元を越えていく。時間が掛かり始めほとんど進んでいかないがCフェイスが眼前に迫ってきたので疲れは感じなかった。

                        第四章に続く