北アルプス 穂高連峰
アルパインクライミングを目指したはずだが
2015年8月26日千歳空港より成田に到着した時点で台風は確かに関東を通過しており、台風一過になると信じて疑わない我々だった。
深夜の高速バスは中央高速をひた走り、27日早朝上高地バスターミナルに到着、早速、最終日宿泊する宿に不要の荷物を預け、歩き始めたのは9:00近くなっていた。週間天気予報は決して良くはなく、前線が停滞するとのことであったが、とりあえずは雨の気配はない。
明神、徳沢、新村橋と通過すると出会う登山者は北アルプスらしくはなく皆無となる。砂防ダムの林間に井上靖作「氷壁」のモデルとなった「ナイロンザイル切断事件」の犠牲者慰霊碑があり、思わず手を合わせる。
自分にとって20代に読んだ「氷壁」の舞台に向かうことになるとは夢にも思っていなかっただけに身の引きしまる思いがした。
中畑新道の意外と悪い登山道を登っていくのだが背中の荷が重くてピッチが上がらない。こんなことでは駄目だと思っても歳には勝てない事実がここにある。
よれよれになりつつ時間はたち16:00奥股白池に到着、上高地から7時間ちょうどの行程であった。
奥股白池はブヨで真っ黒だった
到着当日は悪くはない天気だったが
誰もいない!8月終わりなのに、北アルプスの有名登攀ベースなのにまさか誰もいないとは思っていなかった。アルパインクライミングは時代遅れになったのかとガスで何も見えない前穂東壁を眺めつつテントを張り中には入る。
奥股白池には無数のブヨで真っ黒となっており、とても前穂東壁を映す美しい池には見えない。テントに逃げ込んでも、中に紛れ込んだブヨ退治に追われる始末だ。ひょっとすると誰もいないのはブヨのせいかも知れない、我々は少し早かったのか?
8月28日の朝になっても前穂東壁は真っ黒いガスの中であるがとりあえず6:00出発。奥股沢は落石が積みあがり、見た目より傾斜もあるし、第一不安定ですぐ崩れるのには閉口だ。何とかC沢入口と同じ高さまで上がり、しょぼい4本爪の軽アイゼンを装着する。MNさんだけは高級な軽量アルミ製12本爪のアイゼンなので、雪渓を先行してトラバース、後の三人は結構な傾斜をおっかなびっくり渡る。
滑ったら多分、中畑新道分岐あたりまで落下するのは間違いないだろう。
雪渓をトラバースしてC沢入り口よりクライミング開始
危険なトラバースを終えても、C沢入口まではまた微妙で不安定な登りとなる。
C沢入口は花崗岩で出来た柱状節理の城門であるが、見かけによらずボロボロだ。
頭上には巨大なチョックストーンが見え、来るものを拒むのがいやでも分かる。
それ以上はガスで真っ黒であり何も見えず、雰囲気は最悪である。
行くしかないとアンカーをキャメロットで作り、HNトップで取り付く。
傾斜はそれほどないのだが悪い、見えている岩が大げさではなく全てが浮いており、触ると動きまくる。
花崗岩といえども脆く神経を使う
ロープが触れるだけで落石となるのでトップから目を一瞬たりとも離せない。
それでも長水はじりじり上がり巨大なチョックストーン下でピッチを切る。
巨大なチョックストーンから右を巻き、さらにHNが行く。
大岩を越えたら越えたで、今度はホールドもスタンスも砂利が乗ったザレザレ地獄となる。ここから左にインゼルの上部が見えるが、東壁の取り付きは全く見えない。
天気は朝より確実に悪化しているように思われた。
一つの石を取り除けば、その上の石が落ち、またその上の石が落ちる、つまり岩雪崩である。正に岩雪崩寸前の渦中に居ることになるのだが、本当にこんなところ登っているのだろうかという疑問が湧いてくる。
ふと脇の壁を見ると苔が生えているので理解した。ルンゼに雪が残っている7月にアイゼンでスタスタ登るのだろう。どおりで8月の記録があまり見つからないはずだ。
敗退を決めハーケンでアンカーを作る
C沢入口より4ピッチを過ぎ、四峰正面真下あたりで9:00である。
この調子でいくと東壁の取り付きは11:00過ぎ頃、ガスの中初めてのルートを7ピッチ、4人で順調でも暗くなるのは避けられないし、第一雨が降るはずだ。
皆が見合うと結論は「降りよう」と即断になった。
直ちに下降に移るが、全てが浮いて中で同時に動くのは本来ご法度。
しかしそんなこと言っている場合ではなく、全員同時に2ピッチとりあえず降りる。巨大チョックストーン上部にナイフブレードを二本打ち込み、50m一杯降りるが2mほど届かないのでクライムダウン、ATCからロープを抜くときは緊張の極みである。おまけにロープを揺らした瞬間、2~3個の落石が来た。
何んとか、かわし、チョックストーン陰に集合、ロープを回収。
慎重に引くと、落石の嵐になるかと思いや、意外と数個しか落下してこなかったのでほっとする。
C沢入口まで降りても、まだ気を抜くことは出来ず、10:30雪渓トラバース終了をもって安全地帯に出ることが出来た。
天気は悪化しているので12:00テントを回収、涸沢へ行くルートは、崩壊の程度が不明なパノラマコースを避け横尾まで行くことにする。
下りの中畑新道は、登りの時とは打って変わり乾燥していたので、快適の一言である。
16:00横尾キャンプ場に到着、テントを張って間もなく雨が降ってきた。
雨は一晩中降り続いたので奥股白池を撤収したのは正解だった。
涸沢には10張り程度しかテントがなかった みんな下山したようだ
8月29日雨が振る中7:42出発、だらだら坂を登るのは意外と辛い。
涸沢から下山してくる人々は数え切れないほどであり、しばらく悪天が続くと判断してのことであろう。それに比べ涸沢に向かう物好きは誰もいない、本当に一人もいないので登って行く我々は何なんだ。
恐らく北穂東稜も、滝谷も、前穂北尾根も駄目かもしれない、と思うのだが山は現地まで行ってみなければ分からない。
11:20涸沢キャンプ場到着。テン場を見渡しても10張程度しか目に入らない。
晴れていれば無数のテントで溢れているはずなのに寂しい状態だ。
結局風雨強く一日停滞、何もすることがない。翌30日涸沢小屋へ転進し一日停滞、風雨強し。
強い雨に堪らず涸沢小屋に逃げ込んだ
8月31日
6:35涸沢小屋~8:35北穂高岳山頂。
このままであると、一週間穂高に居ながらクライミングルートどころか、一つも山頂が踏めない事態になるのは火を見るより明らかである。
朝目が覚めると雨が小降りになってきたので北穂高へ向かうことにした。
まるで舗装道路のような登山道を登り、鎖場、梯子を越えていくとしばらくしてテン場が現れ、縦走路分岐、右へ折れまもなく北穂高岳山頂となる。
何も見えない、昨年はあれほどの快晴だったのにガスしか見えないし、2~3人が降りてきただけだ。
何とか北穂高岳でも登っておこうと雨の中南稜を登る
何の感慨も湧かないまま、寒いので一人の客も居ない北穂高山頂小屋へ入る。
雨具を脱いでいる時、一人の若者が現れた、何処から来て何処に行くのだと質問すると、奥穂高岳山荘からやってきて、大キレットを越えて槍ヶ岳へ向かうとの事!嘘だろう!確かにこの天候の最中、相当に危険な涸沢岳を越えてきたのは立派だが、これから大キレットは考えられない。
昨年、晴天の槍~大キレットと越えてきた自分ではとても無理だ。
いくら若くても飛騨泣きへの下降、長谷川ピーク、南岳への登りと、晴れていても神経が磨り減るコースを風雨の中を行くのは無謀であろう。
余計なお世話だが、一言やめたほうが良いと皆が口を揃えて話すが、彼はろくに休みもせず飛騨泣きへの下降へと向かった。
凄いやつが居るものだ、とても自分には真似が出来ない、まるで三歩みたいなやつが現実に存在することに驚いた。誰もいない北穂高山頂小屋はストーブが焚かれており快適の一言だ。温かなミルクティと音楽、停滞の連続で暗い気持で沈んでいた心が洗われていく。
当然のことながら小屋には一人もお客さんがいない
1時間ほどで下山しようとしていたところ、突然小屋の玄関が開き先ほどの若者が現れたではないか。どうしたと聞くと、風雨が強くあまりに危険なので途中で引き返しましたと話す。
思わず、そうだろう、行かなくてよかったじゃないか、いい判断だと言ってしまう。三歩みたいなやつが現実に居るわけがないと納得する自分が情けない。
10:40涸沢小屋到着、これで今回の予定はほぼ終了。
下山は、ほとんど使うことなく終わった登攀具の重さが、身に応えたのはいうまでもない。昨年給水をしくじり前穂高岳山頂をカット、今年もまたすぐそばに居ながら登れない。何事三回、来年も来ることが出来るだろうか。
気落ちしたメンバーは関として言葉なし
梓川の清流は泥流としなって面影なし
2024年9月現在、前穂高岳にはまだ行くことが出来ていない。
この後、2016年4月函館山南壁において、リードに失敗しグランドフオール。
踵を粉砕骨折、全治三か月の重傷を負ってしまった。
パートナーに背負われて自力下山(自力ではないか)したので、ニュースにはならなかったが立派な遭難事故である。
その後リハビリに励み、何とか山に戻ることが出来たが、今度はコロナ過である。2022年ようやくコロナが収まってきた時、興味が後立山に移ったので前穂高はいまだに未踏峰だ。